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私は、90年代〜00年代 の2期16年間 ローカルAMラジオ局の東京支社で勤務。 その間で 短い時間(当時)全国全ラジオ・テレビ局の中で 8社(局)のみ加盟が許された「国会記者倶楽部」の会員として月一国会内の事務局にて政局について情報交換。赤の絨毯、議員食堂のカレー、自民党本部、首相官邸など貴重な体験。 また 同時に「放送記者倶楽部」にも全国のラジオ・テレビ全局で構成される会員にも加入。その中で 半年に一度定期的にある「放送記者倶楽部」の(時には泊まりがけ研修会)にて その時々のホットな有名・著名人の貴著な講演に参加したのは 人生の宝。 その年 沖縄にて開催された研修会では、一般人では入れない嘉手納基地を見学後、 沖縄県那覇にあるホテルにて、下記の故・太田昌秀元沖縄県知事から“沖縄戦”と自身の生死を分けた「千早隊」の最後の二人の一人であった事を語って頂いた『講演は、終生忘れる事はない』以下 如何に優れた政治家・教育者であるのがお分かりでしょう。また 彼は 戦争当時敵国の言語=英語 フルブライト訪問教授として米アリゾナ州立大学教授就任された程の学者でもあった。 大田 昌秀(おおた まさひで)、1925年6月12日 - 2017年6月12日)は、日本・沖縄の政治家・社会学者。元沖縄県知事、元社会民主党参議院議員。琉球大学名誉教授。特定非営利活動法人沖縄国際平和研究所理事長。沖縄県島尻郡具志川村(現・久米島町)出身。 1945年3月に鉄血勤皇隊に動員され、情報宣伝隊の「千早隊」に配属された。沖縄戦の中、九死に一生を得るが多くの学友を失う(同期125人中生存は大田を含めて37人) 敗戦後、米軍捕虜となり、軍施設で働きながら、日本とアメリカの留学試験に合格し、早稲田大学教育学部へ進学。在学中に英語部(WESA)を創立する。在学中に渡米し、シラキュース大学に留学、帰国後、琉球大学学長秘書となり、琉大タイムスを発刊する。 1990年、革新統一候補として県知事選に立候補し、現職の西銘順治を破り、知事となった。初の女性副知事の登用、女性総合センターの創設にも取り組んだ。 大田昌秀の言葉 大田昌秀が鉄血勤皇隊の生存者として、また沖縄戦の研究者として、一貫して語り続けてきたことは「軍隊は人を守らない」、本土を守るために「沖縄は捨て石」とされた、ということだった 〜 「私は戦争体験があるものですから、基地だけは絶対に受け入れられません。沖縄はもう二度と戦場にしたくありません」 • 945年(昭和20年)- 沖縄師範学校本科2年時、学徒隊の鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦に参戦 • 1946年(昭和21年)- 沖縄文教学校卒業 • 1948年(昭和23年)- 沖縄外国語学校本科卒業 • 1954年(昭和29年)- 早稲田大学教育学部英文学科卒業 • 1956年(昭和31年)- 米シラキューズ大学大学院修了(社会学専攻)、琉球大学財団に勤務。 • 1963年(昭和38年)- 東京大学新聞研究所にて研究 • 1968年(昭和43年)- 琉球大学法文学部教授就任 • 1978年(昭和53年)- フルブライト訪問教授として米アリゾナ州立大学教授就任 • 1990年(平成2年)- 琉球大学辞職。11月18日の第6回沖縄県知事選挙に立候補、現職西銘順治を破り当選。石垣空港建設反対を公約にしていた。 • 1991年(平成3年) - 大田平和総合研究所(2013年1月に沖縄国際平和研究所へ改称)を開設 • 1994年(平成6年)- 11月20日、任期満了に伴う第7回沖縄県知事選挙で当選(2期)。 • 1998年(平成10年)- 11月15日、任期満了に伴う第8回沖縄県知事選挙で稲嶺惠一に敗れ落選。 • 2001年(平成13年)- 7月29日、第19回参議院議員通常選挙(比例区・社会民主党)当選。 • 2007年(平成19年)- 7月29日、第21回参議院議員選挙に立候補せず政界を引退。 • 2017年(平成29年)- 6月12日、呼吸不全・肺炎のため那覇市内の病院で死去[1]。92歳没 #太田昌秀 #JOSF東京支社 #国会記者倶楽部 #民間放送記者倶楽部 #文化放送 #ニッポン放送